「極」究極の欲望!


この言葉から浮かぶのは自己犠牲ありきの努力ではないでしょうか。つまらない欲望を振り切るから道を極められる・・・その姿は美しい・・・こんなイメージがあります。愛を極めたナイチンゲールは愛されたいならまず許しなさいと言いましたが、この言葉にもたいていの人が自己犠牲を感じるでしょう。

書道も同じようなイメージがつきまといます。「一番書いた時は一回の展覧会のために千枚練習しました」なんて言うと、たいがいの人は「そのぐらい書かないと極められないんだね、私には無理。」と。やったことがない人には修行も自己犠牲の一種にしか見えないようです。当の私といえば、楽しくて書きまくっていたらいつの間にか夜が明けていた・・・という感覚なのですが。

だからこそナイチンゲールは眉間にシワを寄せて愛を尽くした訳ではないと思えるのです。楽しくて夢中になれると感じることをひたすら続けてきたはず。もちろん義務でも自己犠牲でもありません。欲望を捨て去るどころか、むしろ欲望の固まりじゃないと極めたいという気持ちは生まれてこないでしょう。

辛そうに努力した方が価値があるように見えるのは、私たちの心に武士道が根付いているせいかもしれませんね。だからこういう話をすると、なんて軽々しいと眉をひそめる人も確かにいました。でも私はやっぱり、我を忘れるほど楽しめることを見つけて極めてみませんか?と言ってしまうのです。(月刊『近代中小企業』掲載)

HOME
記事の無断転載及び複製はご遠慮願います。
2002-2007 Copyright (C) Shurei. All Right Reserved